契約ではない‥‥‥?

荒川氏のところでもとりあげられているが、レッシグ教授によると、クリエイティブ・コモンズは別に契約である必要はないのだとか。
http://www.alles.or.jp/~spiegel/200309.html#d21_t3
こっちでもメールから引用しておこう。しかしなんで文字化けするかな‥‥‥。

ここで、面白い話がひとつあります。(ちょっと法律的になるかも知れませんが)、GPLもCCPLも、法的な意味では「契約」である必要はない、というのが公式見解だということです。著作権者と利用者の間で、契約が成立する場合もあるが、しない場合もある。それでもかまわない、ということです。むしろ、GPLもCCPLも、著作権の利用条件を明示しているものに過ぎない。違反したら、契約違反ではなく、著作権を使って責任追及する。その意味で、厳密には、「権利を行使する場合のポリシー」を明示したものにすぎない、ということです。

ということはどういう風に構成するのか。以下のようなロジックになる‥‥‥と思われる。

著作者はCCPLアイコンをはることによって、自分の著作物の使用条件を宣言する。
利用者は、通常は著作権法によって他者の著作物を無許可で使用することはできない。しかし、著作者のCCPLによる宣言によって、利用者はその範囲内では使用を許可されていると受け取ることができる。
利用者がCCPLの範囲を超えて著作物を使用した場合、著作者は、著作権法に基づいて自らの権利を行使することができる。そのため、利用者はCCPLの範囲内でしか使用できない。(著作権の制限で許可されている範囲についてはCCPL等に関係なく使用できる)
利用者がCCPLの範囲内で著作物を使用しているのに、著作者が自らCCPLで宣言したことに反して著作権を主張してきた場合、著作者は禁反言の原則*1によって自らの宣言に反して権利を行使することはできないから、利用者はCCPLの範囲内での使用について侵害を問われることはない。

で、ここまで書いて思ったこと。
CCPLをライセンスではなく単なる自分の著作物の使用条件の宣言だと解釈するので有れば、人格権を放棄すると言い切っても別に問題はないのではないか。自分でそう宣言したのだから、禁反言で縛られる、とすれば有効無効という話にはならないかもしれない。
問題は、改変OKをShare-Alikeしたときか。使用する人に対して、人格権を放棄するように要求していることになる。しかしこれは別に使用しなければいいだけの話だから、放棄を強制しても問題ないか?
人格権を放棄するという選択肢を作ってそれに同意させれば、それで改変について著作者人格権が問題になることはないように思われる。人格権放棄のバージョンについては真紀奈たんの提案が適当と言うことになるか。
http://homepage3.nifty.com/machina/cc1.html
まだ人格権を放棄するのか、それとも名誉を侵害しない形での改変のみをOKにするとするのか決まっていないので、それ次第ではあるのだが。

*1:自己の行為に矛盾した態度をとることは許されないということ。信義則から導かれる、相手方の信頼を保護するためのもの。