レッシグミーティング

http://www.glocom.ac.jp/top/2003_11_04news.html
GLOCOMの告知も出てた。
英語/日本語双方ともに同時通訳有りということは、普通に日本語で質問することが可能ってことか。これは嬉しいかも。聞くことは何とかなるかもしれないが、話すのはまず確実に無理だからな、私の語学力じゃ。


ネットワーク・コミュニティとのインタラクションを重視、か。
彼らの言うネットワーク・コミュニティとはどのあたりを指すのだろう。そしてそことのインタラクションは、クリエイティブ・コモンズによる創造性をもたらすのか。
実際にものを書いている人にどれだけ伝わるか、か。ビジネスユースの人は当面は参加すると思えないから、同人屋、中でもオリジナルを作成できる同人屋にどれだけ届くか、だろうか。


CCそのものは対価を生みだしにくい。その作品によって広がるのはあくまでも共有地であって、そこから得られるものは漠然としている。それが即利益を生みだすことはまずあり得ず、むしろ非商用コピーについてデフォで許可しているために、それによる被害のほうが大きく見える。
これによる対価は、自由に利用できる領域の拡大だ。アイディアは保護されないと言っても、実際には記念樹事件のように似通っていれば侵害になる。でも、そのときに、私はこの作品に影響を受けたといってCC作品を示せたら?その範囲についてはCCの範囲内ではOKなわけだ。
著作権の領域が広がっていく中で、共有地を確保しようとすることはとても重要だと思う。
ただ、これがソフトウェアと異なって難しくなるのは、公開のメリットが少なすぎることか。ソフトウェアの場合はバグとりとかの効果はあるわけだから。


私はCCPLについてはShare-Alikeライセンスにこだわりたい。萌えクリにしても、byではなく、by-saにするべきじゃないかと思っていたりする。出版するなら、by-nc-saになるだろうが。
単にコピーができるだけ(nd)というのは、あんまり意味がないと思うのだ。散逸を防ぎ、そのものをネット上にて共有し続けることができるというのは確かに大きなことだけど‥‥。
うーん、過去の資産をいつまでも利用できることは、利用できなくなるよりはとても望ましいことだけど、派生できるかどうかよりは私的評価では低くなるな。
デジタル化時代になって散逸可能性&動かすための機器がなくなることによる再生不能化はますます進むだろうから、ndも評価しておく必要はあるか‥‥。この辺はもうちょっと考えた方がいいな。


CCという思想を広めるには、もっとそのseedとなるものが必要という意見が八田さんから出ていた。確かにその通りだと思う。
これがなかなか思いつかないのだが。GPLストールマンによる作品群があったというのに対し、CCにはまだほとんどコンテンツといえるものがない。それではいきなり言われてもそれぞれがまず自分のコンテンツを提供することから始めなければいけないわけで、なかなか踏み切れないだろう。


思うのだが、例えばネットでby-saの小説の設定を公開する、ある旋律をby-saで公開するなどして、オンラインユーザによって競作を行ってみるというのはどうだろうか。
うまくできたのがあったら出版するとかいう条件で。
‥‥出版社がそんな企画受け入れないかな?(苦笑)
そういうことができて、色々な作品ができ、さらにそれらをコラボして‥‥。ついでに第二弾とか行って‥‥とかできれば、そして、その中から切磋琢磨してよい作品が生まれていけば、広がっていくと思うんだが。


それか、結構たくさんの作品を持っていて、既に十分な収入を得ている人に、作品のいくつかをCCで公開してくれるように頼むとか。絶版の作品だったら受けてくれたりしないだろうか。どうせ収入にはならないんだし、ということで。
そうやって提供してもらったby-saコンテンツ群を使ってはじめてみる、とか。


それくらいしか思い浮かばない。12月2日にレッシグ教授を招いて告知するわけだから、そういう色々な実際的な提案を、GLOCOMが提唱してくれないだろうか。
その利点とかも含めて。そうなってはじめて、CCは本格的に活動を始めるのかもしれない。


つーか、金がない人間にはまず生活が大事(苦笑) とてもじゃないが、私には自分の作品を商用可能でCCPLつけたりできないな‥‥。